酷使しすぎた目を閉じて伸びをすると肩やら首やらから悲しくなるような音がした。

「おお物凄い音だ!まるでチョコレートが割れたような」
「あ、それ」

いつからそこにいたのか、テーブルの上に置いてあった紙袋を手に取りその中をしげしげと眺めるその人は、頭のキレる科学者、ゼノ先生である。

「今朝もらったの、バレンタインだからって。あ、そうそう日本だとバレンタインといえばチョコレートなんだ」

こっちじゃ男性が贈り物を準備したりディナーの予約をしたりあくせく働いているが、日本では女性が意中の人にチョコレートを渡すのが慣習だ。
今日の私は所謂逆チョコをもらってしまったというわけである。しかしこれは同郷のよしみのようなものだろう。私にそのチョコをくれたその男性は今頃きっと空港で日本行きの飛行機を待っている。だからこれは記念品としてありがたくいただこうと思っていた。残念ながら今まで手が離せず袋の中身すら確認できていなかったのだけれど。

「つまり君たちは企業が、とりわけ製菓会社が作り上げた市場で毎年見事に踊らされていると」
「先生それは言わないお約束です。でもまぁイベントはなんだかんだ好きだし。必要なんだよね、そういう機会が」

機会は与えられるものではなく己で作り勝ち取るものだ、なんてこの人なら言いかねない。それにしても、そろそろその手に持った高級チョコレート入り紙袋を返してくれないだろうか。このままだとしれっと持っていかれそうである。

「せっかくだし開けて食べようかな。もう集中力切れちゃって」
「そうかそれは良い」
「うん……なので返してくれると嬉しいです」

普段めったに浮かべない笑みのまま、ゼノは私を見ている。何故か試されているような。仕事は一応順調だ。まさか没収なんてことはあるまい。

「ああいや、実は昨夜から何も食べてなくてね」
「ええ!?そういうことは早く言ってよ」

多忙な彼はいつだって寝不足に見えるが、まさか口に物を入れる暇もないほど働いていたとは。しょんぼりとした雰囲気で眉を下げられてしまったら今ここで食べ物を与えない私の方がケチで不親切な人間である。

「じゃあ一緒に食べよう。さ、貸して貸して」

なにせ折角いただいた高級チョコレートだ。高級チョコレートである。私だって食べたい。それなら仲良く二人で分け合えば良いではないか。
譲歩の甲斐あってか、ゼノは紙袋から箱を取り出し私に寄越した。

「わーかわいい!どれが良い?」
「構わないよどれでも。君から選んでくれ」
「フフ、じゃあお先に……」

この最初の一粒を食べる瞬間こそがバレンタインの醍醐味である。配るもの以外に自分にちょっと背伸びしたチョコレートを買う。そういう楽しみ方もあるくらいだ。

「美味しい。ゼノのはどう?」

ヘーゼルナッツの乗ったチョコレートを口にしたゼノは「なかなか悪くない」と舌鼓を打っている。昨日から働きまくっているらしいゼノ先生の空きっ腹と渇いた脳にも、このチョコレートは染み渡るに違いない。
喜んでくれたようで良かった。だからといってもらった本人を差し置いて次々摘まんでは食べているような気がするのは、何かの見間違いだろうか。いいや、ここは目を瞑ろう。このチョコレートだって誰かの栄養になる方がきっと幸せだ。
祖国へ帰る親切な贈り主に心のなかでそっと手を合わせ感謝した。


「あっという間になくなっちゃったね」

そのまま手が止まらず、ものの数分でチョコレートは私とゼノの胃に溶けてしまった。半分以上ゼノが食べてしまったのだけれど。
一気に食べたら今度は喉か渇いてきた。ちょうど良いしお茶でもいれようか。

「ゼノも何か飲む?コーヒーとか」
「おおそれは実にありがたい!……と言いたいところだが」
「あ、もしかしてまだ忙しかったり」
「いいや。今日はもう切り上げるつもりだよ」

どうやら彼はもう帰路につくようである。ちゃんとしたご飯を食べて睡眠をとった方が良い。いくらゼノが優秀でも身体は私と同じ人間なのだから。

「ところでつかぬことを聞くがこの後予定は?」
「予定?特に何も」

しまった。バレンタインデーだというのに予定が何もないですだなんて。しかしつまらない見栄を張ったところで帰ってもシャワーを浴びて本を読んで眠くなったら眠るだけだ。

「では18時にエントランスに来てくれ」
「…………ん?」
「鈍い君にも分かるようハッキリ伝えるべきだね。名前、今夜、僕とディナーに行かないか」
「鈍い……」

よもやゼノの口からそんなお誘いが飛び出てくるとは夢にも思わなかった。返事に窮していると「昨夜から何も食べてないんだ、さっきも言ったが」とすかさず追い討ちをかけてくる。どうやら色々な意味で本気らしい。

「分かった18時ね。えーと、楽しみにしてる」
「良かった、嬉しいよ。店は勿論押さえておくさ……ああ、その空箱は僕が処分しよう」

そう言うなりゼノはチョコレートの入っていた箱を紙袋にさっさと入れてしまった。待って、その紙袋かわいいからとっておこうと思っていたのに。言うタイミングをすっかり逃してしまった。

「さっきのも悪くはないが、チョコレートなら僕も君の口に合いそうなものを知ってる。それも楽しみしていてくれ」

ゼノって女性と食事をする機会が普段あるのだろうか。寝ても覚めても科学!研究!のイメージがあるせいか、あまり想像がつかなかった。しかし先程、その彼に鈍感呼ばわりされてしまったので、私が何も知らないだけかもしれない。

「あー、ありがと……」

今夜でなければ単純に仕事仲間として私も誘いを受けたと思う。取り敢えず、メイクや髪が崩れてないかくらいはチェックしないと。どうやら私もこの日の雰囲気に多少当てられてしまっているようだった。



2021.2.14 Stealing and Giving


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